伝産法の指定を目指して

 「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」(伝産法)は昭和四十九(一九七四)年に施行された。これを受けて箱根、小田原にある寄木を含む指物、漆器、木象嵌、組木、玩具などの業界が「箱根細工」の名前で指定を受けようとした。しかし、「江戸時代からの技術の継承」という指定条件に該当しない業種が含まれていたため、実現しなかった。その後、条件に該当する寄木と漆器の二つに絞る行政指導が行われ、寄木細工が指定を受けるために動き出したのは、八年たった昭和五十七年九月のことだった。箱根町役場に、寄木を手がけている同町の畑宿、湯本から二十三、小田原市内から三の計二十六業者が集まった。
 呼び掛け人は(社)箱根物産連合会会長の渡辺一造氏。会議が開かれ、席上、地区の代表として畑宿は館野実氏(当時箱根物産寄木工芸協同組合理事長)、小田原は(株)露木木工所社長露木清次氏が選ばれたが、私が所属する湯本地区は名指しされた湯本指物組合長が固辞して決まらず、湯本地区の長老鈴木堅次氏の発議で当時五十歳の私が指名された。この地区は先輩方も多く、とてもお受けできるような状態ではなく、その場では決まらなかった。後になって、渡辺会長から電話が入り「本間さんが受けないと話は進まないよ」と言われた。湯本地区が決まらないと、指定を受けるための運動そのものに支障を来すという、からめ手からの説得で引き受けざるを得なかった。
 以後の会議は(社)箱根物産連合会(小田原商工会館内)で行われ、同会の専務理事露木保氏を中心に露木清次、館野実、金指勝悦氏と私達の数人で進められ、通産省へ提出する申出書の作成に入った。何回かの会議で技術・技法や歴史的な背景などをまとめたが、これには神奈川県工芸指導所(現工芸指導センター)の中村務技師の力添えも頂いた。
 地元業界では指定を受けるための準備として翌年十月十二日、「小田原箱根伝統寄木協同組合」の創立総会を開いた。指定を受けようとする工芸品名は小田原の業者もいるので、ただ「寄木細工」とする意見もあったが、国際観光地箱根の地名を入れた方が世界に通用しやすいということになり、「箱根寄木細工」と決まった。その後箱根の業者から工芸品名に「箱根」を入れてもらったから、組合名は「小田原」を先にしようと意見が出て「小田原箱根伝統寄木細工協同組合」と決定した。いまでこそ一所帯のような和やかな組合活動をしているが、以前は同じ箱根町内でもそう親しい間柄とはいえなかった。指定後、当時の勝俣茂箱根町長に報告に行った際、このことを話したら微笑まれたのを覚えている。
 その年の一月十三日、通産省伝産室へヒアリング(聞き取り調査)を受けるため出向いた。担当官は岸、福迫両氏で、暑いくらいの暖房が効いた室内へ入って驚いた。前もって参考品として提出しておいた私の蝋(ろう)引き仕上げの「尺二寸文庫」が、暖房のため表面の蝋が白く変わり、まるで乾燥芋のように見えていた。作品には自信があっただけに面目丸つぶれとはこのことだ。
 名刺交換の後、開口一番の言葉は「今日は業界の方が答えてください。他の方は口を出さないでください」であった。これには困った。申出書作成の会合で私達は技法のことを話したが、それを書類にまとめたのは露木保氏と中村技師で、私達業界の者はお供のつもりで出てきたからだ。次に「輪島塗りと比べて誇れる寄木細工はどれですか」と聞かれた。「塗り」と「寄木」は性格が違うので優劣を比べるわけにいかない。これにも答えようがなかった。そもそも申出書の一ページから入るのかと思ったら、「何ページにこういうことが書いてあるがこれは何ですか?」と申出書を見ずに次々と質問をしてくるのには驚いた。思わず私は「よく申出書を見ておられるんですね、書類を見ずに質問してくるとは」と言ってしまってハっとした。「きょうは余計なことは言うな」とクギを刺されていた。当時、伝産法による国の指定が受けられるかどうか、地元では非常に不安だったからだ。その次に出た言葉は「きょうは何時までやりますか」だった。これにも答えようがなかった。役所というところは五時で終わりと思っていた。そしたら「通産省は通称残業省と言って何時まででもいいですが、今日は五時までにしましょう」となった。
 しばらく寄木業界の話をして、昼時になり、隣のビルの地下の食堂に行った。両担当官も一緒に食事をとったが、私はひと足先に席を立った。先ほどの会議室で目にした私の「尺二寸文庫」の表面が白くなっていたのが気になっていたからで、部屋に戻ると持っていたハンカチ(家内がブランド物のダンヒルを持たしていた)で磨いた。蝋は布で磨けばきれいになる、まして新品だからピカピカに光ってきた。午後、会議が再開され、福迫氏が「白かったこの文庫がきれいですね、どうしました」と言う。すかさず私は「ハンカチで磨きました。伝統工芸品は手塩に掛けてやればこのように美しくなるでしょう」と答えた。なにか胸がスーっとしたような気分だった。午後三時ごろ、この日のヒアリングは無事終わりほっとした。


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 © 本間 昇