技術保存事業として複製を手がける

 寄木職人としての自覚ができる前後から、私はこの世界の大先輩たちが残していった名作を入手して仕事の参考にする一方で、仲間や修業中の者に勉強のために見てもらったり、お客様に「寄木細工にはこんなすごい作品もあるんですよ」と披露したいと思うようになっていた。名品、逸品なればこそだが、中には持ち主が手放すつもりがないなどの理由で、収集品にどうしても加えることのできないものも少なからずあった。当然といえば当然なのだが。こういう場合、私は複製品を作らせていただくお願いをした。写真を撮って、図面を引いて、場合によっては手にとって、持ち重りを確かめて見ることもあるので、時間もかかるし持ち主が大事な宝物を疵でもつけられたらと心配される場合もある。うぬぼれで言うのではないのだが、寄木職人としてどうしても作ってみたい、挑戦してみたいと説明すると快くお許しいただけた。
 これとは別に、伝産法の指定を受けると研修事業を義務付けられるが、その中に技術保存事業がある。歴史に残るような作品を複製してその技術を学ぼうという趣旨だ。指定以前から先達の仕事ぶりには興味があったし、参考にもしてきたので複製には積極的に取り組んできた。したがってこの趣旨は大いに結構だと思っている。私の人生の転換点でもあった「洋風厨子」と、それに先立って手掛けた「旅枕」の複製について振り返ってみる。
 第二章で述べた伝産法による寄木細工の伝統的工芸品指定は、業界を挙げて祝うほどの慶事であったのだが、この私だけにはちょっと「憂鬱な役回り」が待っていた。というのは、伝産法指定の条件をクリアする根拠となったのが洋風厨子だが、その祝う会にどういう手違いか、持ち主の林安人さんをお呼びしていなかった。私もその時まで林さんとは面識がなかったので、打ち合わせの時も気付かなかったのだが、事務局は林さんを招待するのを失念していた。
 祝う会の翌日、箱根町立郷土資料館の加藤利之館長から電話が入り、「祝う会に林さんを招待しなかったのは失礼ではないか。手土産を持参して謝りの挨拶に行きなさい」としかられた。どうして私なのか、と不満ではあったが、翌日、菓子折を持って平塚市内の林さん宅へ出向いた。黒塀の立派なお宅で、恐る恐る玄関に入り初対面の林さんに失礼を丁重にわびた。林さんはいやなことは何ひとつ言わず、指定に対するお祝いの言葉を述べられたので感激した。部屋の中にはガラスケースの中に鎧や兜がいくつも並び、武具甲冑のコレクターであることがわかり、しばらくその話をした。そして落ち着いてきた私の心の中に、不在だったばかりに私の手に入らなかった洋風厨子を、復元してみたいという望みが大きく膨らんできた。「複製を製作したいのですが」とお願いしてみた。林さんは快諾され、晴々とした気分でお宅を辞した。驚くことが多かった洋風厨子を「絶対に作ってみよう」という気持ちになっていた。
 林さん宅にお詫びに伺い、ついでに複製のお許しまでいただいたが、あまりにも立派な作品でどこから手を着けてよいかしばらくは戸惑っていた。まず、図面を描くことから始めることにした。年末の町役場の仕事納めの前日、私は息子の博丈にカメラを持たせ、郷土資料館に出向いた。洋風厨子は同館が林さんから預かって保管していた。館長の加藤氏は長年、NHKの記者を務めた方で、郷土のことを大切にしてくれ、随分とお世話になっている。複製の準備ができたことを告げるとケースから出してくれた。博丈が写真を撮り、私が寸法を取る。この日はこれで終わった。正月の三が日、新年の挨拶が終わるのを待って茶の間で図面を描き始めた。写してきた写真を基にして十枚以上描いた。
 一月中旬、仕上がった図面を携えて郷土資料館へ行く。図面が正確であったかどうか確認のためだ。多少、修正した後、まず乱寄木の製作に入る。昼間は従来通り自分の仕事をしなければ、他の職人の仕事の流れが滞ってしまう。それに父はその頃健在で日中、時折工場へ姿を見せる。以前、他からの依頼で通常の仕事以外の作品を手がけていた時、「仕事もしねえで何やってるんだ。職人の腕自慢はメシが食えねえ」とひどく叱られたことがあった。
 午後四時頃から始め、夜は納得の行くまで午前零時でも二時まででもやったことがある。それでも分からないまま、中途でやめて寝たこともあったが、そういう時は眠れず、考えていると頭が冴えてよけいに寝付けなかった。拡大鏡で見て板の厚みを確認するような、いままで見たことも作ったこともないような小さな寄木まである。夜中までかかって小さな寄木をまとめ上げほっとして寝て、朝になって見ると方向を逆に付けてしまったのに気付き、湯の中に寄木を入れてばらしたこともあった。仕上げが漆塗りのため、全て接着は昔通りの膠付けにしていたので湯で戻せてばらばらにして付け直すことができ、その点だけは都合がよかった。今のボンドだったらこうはいかなかった。
 厨子の乱寄木は欅、樟、桑、槐(えんじゅ)、黒柿で作られているので、現物に似た木目の材料をそれぞれ集めた。木目を合わせるため大きな板の中から木目に合うところを切ってそろえた。天面を一枚、側面を二枚、観音開扉を左右二枚と前面の慳貧戸(けんどんと)*を一枚作製する。これに先に寄せた寄木文様を寄せる。こう書いている自分でさえ面倒なことをやったもんだと思うくらいだ。象嵌の部分は小田原在住の木象嵌師内田定次氏の協力をいただいた。
 乱寄木片の中に文様をはめ込むのだが、わずかでも大きいとはみだして金具に引っかかるので、何回も作り直した。特に扉の文様は苦労した。次に本体の製作に入った。これを作るには一個先行してやることにした。なぜかというと、この作品最大の特徴であり、要ともいうべき天面の勾配や天面の中央で二枚の寄木を接着させる角度、さらにそれを側面と接着させる角度を確認するためだった。

*慳貧戸 上下に切ってある溝に外からはめ込む一枚戸。上の溝が下より深く切ってあり、はめた後、外れにくい構造となる。出前の「岡持ち」にこの構造が見られることがある。


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 © 本間 昇