実演で各地を飛び回る

 昭和五十九(一九八四)年五月、箱根寄木細工は伝産法の指定を受けたが、指定を受けると、実施しなければならないことがある。
 一、従業者、後継者の育成
 二、技術研修とその継承
 三、原材料の確保
 四、需要開拓
 五、原材料の共同購入
 六、作業場の改善
 七、品質の表示(伝産マーク)
 八、福利厚生と褒賞
である。
 次の年より八年間の第一次振興事業実施に入った。業界にとって八項目の中で大事なことは後継者の育成と需要開拓であった。この二つは車の両輪のごとく大切なことだ。伝産室担当官との話の中でも、強調されたのは、需要開拓であった。話は簡単で、いくら立派な技術でもって作品を作っても、それが売れなければメシは食えない。当然のことながら良い物を作らなければ売れない。特にこれからの時代、消費者のニーズに合った物作りをしなければならない。まだまだ新製品開拓の努力をする余地はあるということだ。
 その頃、木象嵌の後継者が皆無といっていいほど、いなくなっていた。そこで、木象嵌の第一人者内田定次さんを講師に招いて実技指導をしていただくことになった。糸鋸ミシンの機械が必要で、私の工場からも研修会場の寄木会館(箱根町畑宿)まで、重い電動ミシンを四人がかりで運び込んだ。それが八年間続いた。そのお蔭で、立派な木象嵌師が一人だが育った。私も六十一年に伝統工芸士に認定され、指導者の一人として研修事業には毎年、かかわることになった。
 需要開拓では、横浜高島屋で開かれる「関東甲信越静 伝統工芸展」でも実演販売をした。横浜三越、渋谷東急百貨店での工芸展や職人展にも出て実技公開をした。これらはもちろん私一人ではなく、伝統工芸士に認定されている組合の腕利きはこぞって参加、寄木細工の宣伝に努めた。
 その効果で伝産協会のアンケート調査によれば、寄木細工の知名度は指定直後は首都圏では約三〇%だったのが、五年後には六〇%くらいまで上がった。現在は八〇%くらいまでになっている。ただし、それは寄木細工の名は知っていても、実際に作る工程までは知らないと考えられる。特に関西では指定当時は一七%と低く、われわれの業界はまだまだやらなければならないことが多いと感じている。
 その年の五月、新潟県十日町市の産業会館・クロステンが完成し、伝産協会から実演の依頼が入った。誰が行くのかという話になった時、露木保氏に、「本間さん、行ってこい」と名指しされ、出掛けていった。そこで出会ったのが、愛知県の「豊橋筆」(伝統的工芸品指定)の大羽順次豊橋筆振興協同組合理事長(故人)で、後に「旅枕」の中に収められている筆を作っていただいた。初めてにしては実演の首尾は上々、翌年の二月には、このご縁で家内と二人で雪祭りに招待された。冬は雪深い所で話に聞いた通り本当に二階から雪の上に出入りしているのにはびっくりした。 が私の解釈だ。


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 © 本間 昇